木挽町の歴史~水と橋で結ばれた町~

木挽町の歴史~水と橋で結ばれた町~

2022.10.28
東銀座のまち
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突然ですが皆さまは「木挽町」という町名をご存じですか?現在の銀座にかつて存在していたその町は、今もなお東銀座の各所で名前を残しています。
今回の記事では、その「木挽町」の歴史と町を結んだ橋についてご紹介いたします!

「木挽町」、その起こりは江戸時代に遡ります。
慶長17年に三十間堀が開削され、その東側に南北に細長く町が形成されました。
また、その名の由来は、江戸城改築にあたって木挽(木曳)職人を多く住まわせたためといわれています。
今でこそ東銀座、銀座と名前を変えているものの、歌舞伎座や柳生道場など木挽町の名前は各所で親しまれ歴史に名を残す、由緒ある地名となっています。

では、そんな木挽町、現在の銀座の中央を流れていた三十間掘や築地川にかかっていた橋をご存じでしょうか。
今では姿を消した橋も多いですが、かつて木挽町は数多くの橋を有していた町でした。
木挽町の橋と川の歴史について少し掘り下げてみましょう。

かつて木挽町があった銀座5丁目から7丁目にかけては三十間堀という大きな堀が存在し、そこには河川が流れていました。そして、そこには二つの橋が架かっていました。

一つは木挽橋。木挽町にかかっていたので「木挽橋」と命名されました。また、三十間堀と汐留川の合流点に一番近い橋なので「一之橋」とも称され、三十間堀に架かっている橋では一番古いものとなります。

二つ目は三原橋。この橋は四代将軍徳川家綱の時代には「無名橋」でしたが、幕末嘉永年間の『日本橋南絵図』には「三原橋」とその名が確認できます。木挽橋よりも遅れて架けられた橋のため、「新し橋」とも呼ばれたそうです。

『日本橋南絵図』(国立国会図書館蔵)

かつて存在していたそれらの川や橋たちは、今では姿を消してしまいましたがそれらの跡地はどうなっているのでしょうか。

まずは「三原橋」。以前の記事でも紹介しましたが、橋の姿は消え、現在では晴海通りと昭和通りの交差点付近に三原橋という地名を残すばかりとなっています。
しかしながら、この付近の施設には三原橋の名前を冠したものも多く、町の変遷の歴史を随所で感じる事ができます。

前回の「三原橋」の記事はこちらから!

次に「木挽橋」、橋の姿は消え道路へと変貌しています。
木挽橋の名前も残ってはおらず、橋の面影はどこにもありませんでした。このように三原橋とは異なり、完全にその名が失われた橋もあるのです。

さて、東銀座エリアマネジメントでは昨年12月に東銀座発のアートイベント「アートコネクト東銀座」を開催いたしました。川と橋のアートオブジェはかつて水の都であった銀座の町を思い起こさせてくれます。ご興味のある方はぜひ下のボタンから動画をご覧ください!

※本イベントは終了しております。

紹介動画はこちらから!

いかがでしたでしょうか。今回の記事では木挽町の歴史と町を結んだ橋についてご紹介いたしました。
移ろいの多い現代で風化するもの、変わらずに名前を残していくもの様々ですが、変化が良いものとなるか悪いものとなるかはその時代を生きる人々に任されているのではないかと感じました。

変化のなかにも歴史を見出すことも、街歩きの楽しみ方なのかもしれません。
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参考文献:『銀座六・七丁目東町会記念誌 「木挽町界隈」』(1985)、林田素美編、銀座六・七丁目東町会発行