上の図は、新富にあった「新島原遊郭」を、明治2年に一曜斉国輝が描いた『東京新嶋原勝景』。明治の初めのわずかな期間でしたが、新富の町にもこのような立派な遊郭があったのです。
遊郭ができた背景にあるのは外国との交易。江戸時代に、新富に開市場の繫栄策として、海外から来た人を目当てに遊郭を作る計画が立ち上がった事に始まります。慶応4年(1868)8月には新吉原の遊女屋中萬字屋が京都の島原を倣って「新島原」と名付けた遊郭を願い出て、11月に許可が下りました。
下の図は「新島原遊郭之図」と現代の地図です。大門を入船町に向け、南は築地川、東は大溝、西と北は武家屋敷の土塀・板塀を利用して厳重な囲いをしました。
遊女屋65軒、局女屋53軒、茶屋59軒、抱遊女数1,724人と、大規模なスタートを切った「新島原遊郭」でしたが、予想が外れて客は少なく、閑古鳥が鳴く有様でした。
理由として、
・外国人の安全を考慮して橋のたもとに関所が設けられており、入門する武士は大小の刀を取り上げられて預けなくてはならなかったこと。
・居留地に進出した外国人は商人が少なく、主として宣教師や医師や外交官が多かったこと。
等の事情があったことに加え、不人気故に 「遊女飲食の価まで不相応に受取候様の手荒な稼ぎ」さえする店も出て、その噂のために客が益々減少してしまう有様でした。
そのような中、明治3年6月に廃止が決定。明治4年7月に遊女は新吉原に移されて、わずか2年9ケ月でその姿を閉じました。
上の写真は、「大門跡」から「仲ノ町通り」を俯瞰したものです。現在、新富の町には、新島原遊郭があったという案内板もなく、写真のようにオフィス街となりました。
花街の面影をわずかに感じられるのは、建造物として国登録有形文化財に指定されている「新富町躍金楼店舗」。この一帯が花街だった歴史を伝えています。