東銀座と私 / 株式会社玉寿司 4代目 中野里陽平(前篇)

東銀座と私 / 株式会社玉寿司 4代目 中野里陽平(前篇)

2024.10.02
東銀座と私
  1. twitter リンク
  2. LINE リンク

今と昔を結ぶまち、東銀座。まちや風景は変わってもそこで過ごした時間やかけがえのない経験はいつまでも心に残り続ける―
東銀座にゆかりのある方々に東銀座や銀座、築地などを含め、このエリアで過ごした想い出やこれから期待することなどを文や絵など形態にとらわれず、前篇・後篇として2回にわたり自由に綴っていただくエッセー企画「東銀座と私」。
その第10弾となる今回は、築地にて大正13年に創業し、今年で100周年を迎える株式会社玉寿司」の4代目・中野里陽平さんに、築地で生まれ育ったことで培われたまちへの想いや開業を手掛けた「築地きたろう」へのこだわりや工夫などをご寄稿いただきました。まずは前篇をお届けいたします。

昭和58(1983)年 歌舞伎座周辺の様子
(写真提供:中央区立京橋図書館)

銀座から築地に向かう晴海通りが好きだった。昭和通りを越えて、左側に見える歌舞伎座の圧倒的な存在感、銀座とも築地とも違うあの雰囲気。幼い頃、そこには、左にも右にも映画館があり、まさに日本のブロードウェーさながらであった記憶。歌舞伎座を越え、万年橋を渡ると左側に見えてくるのは「男はつらいよ」の看板。当時、祖母が好きな映画だった。それを通り過ぎると、築地に戻ってきた感覚になる。晴海通りの中で、その街の変化がとても好きだった。

左:銀座松竹スクエア/右:東劇

なんとなく東銀座が好きだった私は大学3年生の頃、東劇の下にある飲食店をアルバイト先に選んだ。 そんな私が東銀座とさらに深い縁を結ぶきっかけとなったのは29歳の時。 家業である玉寿司に入社して2年目のことだった。 先代社長である父から呼び出され、「ここからの出店依頼が来たよ」と見せられたのが銀座松竹スクエアの出店案内であった。ガラス張りのモダンですっきりとした姿を見た時に、かつて映画館とボーリング場のあったその地が大きく生まれ変わることを知り、大変驚いた。「陽平はどう思う?」と聞く父の問いかけに、私はすでに直感でわくわくしていた。『ここにお店を出したい。』私の気持ちは固まりつつあった。 幼い頃から好きだった街の風景、はっきりした理由があるわけではないが、無性に好きだった東銀座への想いが、私をそのような気持ちにさせた。しかしすでに半径200m以内に直営店が2店舗存在していた。

築地玉寿司 本店

狭いエリアに同じ店を3店舗出すと、既存店の足を引っ張りかねないと感じた。それでもそこでお店をやりたいということに、わくわくが止まらなかったのだ。その店のコンセプトから店づくりすべてを先代に一任された私は、同じ江戸前寿司店でも『築地玉寿司』とは違う来店動機を創り出したいと考えた。伝統的な顔を持つ、老舗である築地玉寿司にはない雰囲気とは何か? お客様はお寿司が好きだけれども、もっと違うニーズもあるのでは、と考えを巡らした。考えがまとまらぬまま、出店契約書に実印を押し、提出した―。

(後半につづく) 

<プロフィール>
中野里 陽平(なかのり・ようへい)
1972年、東京都生まれ。学習院大学法学部政治学科卒。デンバー大学でホテルレストランビジネスを学んだ後、2000年に玉寿司に入社。2005年、代表取締役社長に就任。「世界で一番海の幸をおいしくする集団でありたい!」をモットーに、財務体質の改善や自前の職人育成プログラム「玉寿司大学」の開講など様々な改革を行い、人材を第一に考えた会社経営を実現させている。

「築地玉寿司」公式HP 「築地きたろう」公式HP