<後篇>
今と昔を結ぶまち、東銀座。まちや風景は変わってもそこで過ごした時間やかけがえのない経験はいつまでも心に残り続ける―
東銀座にゆかりのある方々に東銀座や銀座、築地などを含め、このエリアで過ごした想い出やこれから期待することなどを文や絵など形態にとらわれず、前篇・後篇として2回にわたり自由に綴っていただくエッセー企画「東銀座と私」。
その第10弾となる今回は、築地にて大正13年に創業し、今年で100周年を迎える「玉寿司」の4代目・中野里陽平さんに、築地で生まれ育ったことで培われたまちへの想いや開業を手掛けた「築地きたろう」へのこだわりや工夫などをご寄稿いただきました。今回は後篇をお届けいたします。
ほどなくして、出店予定の区画図面を目にした私は、思ったよりも鰻の寝床のような縦に長い区画であることに気付いた。 それを見て思い浮かんだのは、ここは従来の『築地玉寿司』よりもゆっくりと、お客様同士が会話を楽しみながら美味しいお寿司とお酒を楽しむ風景。カウンターで夫婦2人がゆっくりと職人技を目で楽しみながら、お寿司を楽しむシーン、その奥でゆったりとした席に座りながら、ちょっとした接待を楽しんでいる4人組のお客様、そしてその隣には幼いお子さんを抱えたご家族がソファに子供を寝かせながら夫婦が和やかにお寿司を楽しむシーン、歌舞伎座で歌舞伎を観劇した後に立ち寄ったご婦人方が、感想を述べ合いながらお寿司を楽しむシーン…。カウンターで寿司職人が提供する本物のお寿司や料理を目の前に、緊張して食べるのではなく、自分達の空間を持ち、ゆったり楽しめるイメージを創り上げていった。それは従来の寿司屋にはないバランスであった。
当時は店づくりからメニューづくり、ユニフォーム、什器備品の選定、ロゴの作成、BGMの設備、プロモーションの文章まで全て自分で決定していく立場にあったので、目まぐるしく忙しい日々が始まった。図面を作成する、信頼できる担当者と何度もやり直しながら、店舗空間を練り上げていった。この天井の高さを活かすには、個性的な照明が欲しい。カウンターも、熟練した職人たちの技を五感で楽しんでもらいたい。従来のネタケースを排し、目の前で手元が見える様にデザインした。
もう1つのこだわりとしては、寿司職人の調理する姿を感じながらも、他人の存在を気にせず会話を楽しめる半個室空間。漠然とわくわくしたイメージは、どんどん形になっていった。店名は、『築地きたろう』。多くのお客様に来ていただきたい、そういう願いを込めて名付けた。現場に何度も立ち入っては、自らメジャーで計りながら1cm単位にまでこだわって店舗空間を創り上げていった。当時はメニューブックや看板ポスターも自分自身で、イラストレーターを使い作成した。メニュー内容については、営業部の職人たちと喧々諤々し合って決めていった。そうした中で生まれたのは、『名物 ばらちらし』。
魚を切り付ける中で生まれる端の部分、捨てるのは勿体ないと、その部分を刻んで酢飯に乗せて、まかないとして楽しんでいたスタッフの姿を見て「これを本格的に商品化したら面白いのではないか」と提案してくれたのは、当時、私を支えてくれた玉寿司歴30年のベテラン職人であった。食べてみるとこれが衝撃的に美味しい。『間違いなく名物になる!』と、心が躍った。
着手してから9ヶ月、ついに店はオープンした。前日に開催されたレセプションでは、取引先をはじめ多くの方々にお越しいただき、『29歳の若造がよくここまでやったな』とお褒めの言葉をいただき、照れ臭かったけれど嬉しかったことを覚えている。私が父から、今後の店づくりは陽平に託すと、信頼された瞬間でもあった。
あれから23年が経過し、今では歌舞伎俳優さんや有名な映画監督にも足を運んでいただける、多くのお客様に愛される寿司店となったことを幸せに感じている。そして私は今も相変わらず、当時と全く変わらぬ熱意で、お客様にばらちらしを勧め続けている。私は今年創業100周年を迎えた築地玉寿司の4代目である。祖父が築地一丁目で創業し、私は4人兄弟の末っ子として築地で生まれ育った。これからも築地で、そしてその隣の東銀座で、お寿司でお客様を笑顔にし続けたいと思う。
<プロフィール>
中野里 陽平(なかのり・ようへい)
1972年、東京都生まれ。学習院大学法学部政治学科卒。デンバー大学でホテルレストランビジネスを学んだ後、2000年に玉寿司に入社。2005年、代表取締役社長に就任。「世界で一番海の幸をおいしくする集団でありたい!」をモットーに、財務体質の改善や自前の職人育成プログラム「玉寿司大学」の開講など様々な改革を行い、人材を第一に考えた会社経営を実現させている。